これは、アノニマス氏によって2005年11月29日に投稿された8番目のメールの内容です。 |
私は、チームと彼らの選択した調査、交信に関する問題、そして最後の交換留学についてのリリースに注力する事にしました。 皆さんからの多くの質問がこれらの問題に関係しています。 背景:イーブ1号(訳注:ロズウェル事件で保護された唯一のイーブ人生存者)は、我々が惑星セルポと連絡をとる事を可能にした通信機を提供してくれました。 この通信機は、ニューメキシコ州コロナの近くで1947年7月に墜落したイーブ人の宇宙船に搭載されていました。 イーブ1号は、彼が死ぬ前にその使用法を我々に教えてくれましたが、通信機はうまく動作せず、セルポ星と通信できませんでした。 イーブ1号が死に瀕しているとき、ロスアラモスのアメリカのある科学者が通信機を墜落した宇宙船のエネルギー発生装置と通信機を接続する良い方法を思いついた為、通信機が動くようになりました。 イーブ1号の手助けで通信文の入力を行い、いくつかの通信文が1952年の夏に惑星セルポに向けて送信されました。 更に、1952年の初秋には、いくつかの通信文を受信する事ができました。 イーブ1号は、メッセージを翻訳し、我々にその情報を提供してくれました。イーブ1号は、全部で6つの通信文を送りました。 第1のメッセージは、彼が生きている事を知らせました。 第2のメッセージは、1947年の衝突事故および彼以外の乗務員のの死について知らせていました。 第3のメッセージは、救援チームの派遣を求めていました。 第4のメッセージは、地球のリーダーとの正式会見を提案していました。 第5のメッセージは、交換留学事業を提案していました。 (注:正式記録文書には残っていませんが、イーブ1号の世話をしていた米軍の担当者が、アメリカ軍人からなるチームメンバーが彼らの惑星を訪れ、文化・科学情報の交換や、宇宙旅行中の天文学情報の収集を行うこの交換留学計画をイーブ1号に提案しました。) 第6のメッセージは、救助チームが地球へ着陸する場合の着陸地点などの情報を提供しました。 受信したメッセージには、セルポ時間を基準にした日時と場所の確認が含まれていました。 しかし、イーブ1号が翻訳したメッセージは、日付が10年以上も先になっていました。 イーブ1号はこのとき病の床にあったので、メッセージの翻訳を間違えてしまったのではないかということで、我々の科学者がイーブ1号から教わったイーブ後の知識を使って再翻訳を始めました。 (注:イーブ1号は、機械技術者であり、科学者ではありませんでした。 彼はこの時点でまだ我々に多少のイーブ語を教える事が出来ていたということです。 私が読んだ資料に因れば、イーブ語の3割ほどを翻訳できました。複雑な文章と数字の翻訳は正しくないかもしれません) イーブ1号は生前、我々をサポートし続けてくれましたが、彼の死後は我々は独学で進まねばなりませんでした。 我々は、1953年の6ヶ月間に、何度か通信文を送信しましたが、全く返信はありませんでしたので、その後18ヶ月間懸命に努力をして1955年末に2つのメッセージを送ったところ、遂に応答がありました。 我々は、メッセージの約30%を翻訳することができました。その後、米国および外国の大学から何名かの言語専門家に協力を仰ぎ、ついにほぼ全てのメッセージを翻訳することに成功しました。 イーブ人達が、我々がイーブ語を翻訳した時よりも簡単に英語をイーブ語に翻訳できるか確かめるために、英語で返信を返すことにしてみました。 およそ4ヶ月後に、名詞と形容詞だけで全く動詞が使われていない怪しげな英語の返答を受け取りました。メッセージを翻訳するのに私たちは数か月かかりました。 その後、タイプされた英語の教則書を送ってみましたところ、約半年後に再び英語で返事を受け取りました。 このメッセージは、前回より明らかに明瞭でしたが、イーブ人達はいくつかの異なる英語の言葉を混同しており、まだ正しい英文ではありませんでした。 それでも、我々は彼らに交信を行うのに必要な基本的な英文法を教えることが出来ました。 また、あるメッセージの中で、彼らはイーブ語のアルファベット一覧表と、イーブ語-英語のアルファベット対応表を送ってくれました。我々の言語学者は、苦労しながらこれを理解していました。 それに書かれていたイーブ語は、単純なキャラクタとシンボルだけでしたが、我々の言語学者達は、2つの言語を比較するのに非常に苦労していました。 それからの5年間で、我々はイーブ語をなんとか理解できるようになりましたし、イーブ人達も更に英語を理解できるようになりました。 しかし、最大の問題は、イーブ人達が地球へ着陸する為の日時と場所の調整についてでした。 基本的には、我々はイーブ語を理解できるようになったし、イーブ人達も英語を理解できるようになったかもしれないけど、我々は彼らの使用している日付と時間の概念をまだ理解できていませんでしたし、彼らも我々の日付と時間の概念を理解していないようでした。 我々は、地球の公転・自転周期と日付の考え方などを彼らに送りましたが、イーブ人達は全く理解できなかった様子でした。 その代わりに、イーブ人達の日付の考え方を送ってきましたが、惑星セルポやセルポの太陽系についての解説を一切送ってきませんでしたので、今度は我々の科学者が彼らの時間システムをなかなか理解できませんでした。 その後、我々は地球の目標物やシンプルな時間を示す数値情報表す絵を送ることにしました。 イーブ人達は、我々が選んだ指定した日付と着陸地点を了承したというメッセージを送り返してきました。着陸予定日は1964年4月24日でした。また、着陸予定地は、ニューメキシコ州にあるホワイトサンズ・ミサイル試射場の南部セクターと決まりました。 さて、これを受け政府高官はこのイベントの計画のための秘密会合を開きました。そして決定は何度か修正を行われた後、最終的に決定されました。 我々はこの計画の立案のために約25ヶ月を要しました。主要メンバーが軍人で構成された特別チームが編成されました。 立案プロセスの数か月前に入り、ケネディ大統領は、特別の軍事のチームを交換留学計画を承認することを決定しました。 主として米空軍が主導権を持って進められ、計画と乗組員選出を助けるために特別の民間人科学者を選びました。 前出にもあった通り、チームメンバーの選出作業は困難な作業でした。 チームメンバー選出のための計画が何通りも提案されました。結局、チームメンバー選出のための基準作りのためだけに数ヶ月を要しました。 また、チームメンバーは全員が軍人で、以下の条件を満たしている人物から選出する事になりました。 ・独身で、子供が居ない事 ・軍歴4年以上である事 ・特殊技能を持っている事 ・更に、複数の特殊技能訓練を受けている事 ・前科が無く、交換留学中に起こりうる身元確認に関する問題を排除できる事 提案の一つは、チームメンバーが死んだこととして扱うという事でした。 選出されたチームメンバーは、公式の記録からは完全に「存在しない」という事の為に、公式記録からの削除が徹底して行われました。 この様にして、チームメンバーは周囲との関係を完全に断ち切られました。 選出された各チームメンバーに関するあらゆる記録が抹消されました。それは、社会保障番号、国税収入税務申告書、カルテ、従軍歴、その他識別記録が徹底的に集められ、完全に削除された後、特別な保管場所に移されました。 一次選考で残った軍人は、全部で5万6千人ほどでした。最終選考では、これを12人まで絞りました。彼らは、「ベストの中のベスト」といえる素晴らしい人々でした。 彼らの訓練期間は、約6ヶ月で、16種類の特別訓練を受けました。 また、もし正規メンバーに病気や負傷で欠員が発生したときのために、4人の補欠も選出されました。 ■訓練について 選出されたチームメンバーは、ヴァージニア州キャンプ・ペリーにある特殊施設に派遣されました。ここでは主に知能・諜報に関する訓練を行いました。 我々は、キャンプ・ペリー内の複数施設を完全に接収して、ほとんどの訓練をそこで行いました。 しかし、何種類かの特殊訓練は、テキサス州ウィチトーフォールズのシェパード空軍基地・サウスダコタ州エルズワース空軍基地・メイン州ダウ空軍基地・その他メキシコとチリにある施設で遂行されました。 訓練は、167日間行われました。この期間中15日間の休暇が与えられましたが、休暇中も保安要員によって厳重監視されていました。 出発が近づくと、各チームメンバーは、カンザス州フォート・レヴェンワースの訓練用兵舎の独房へ移送され、外界との接触を完全に断たれました。 これは、彼らが外部と連絡を取らないようにする為で、各人は厳重な監視下に置かれました。 ■計画の変更 我々は、イーブ人から、最初の訪問時には交換留学を行いたくないという意味のメッセージを受け取りました。 彼らは、最初の訪問時には会合だけを行って、次回の訪問時に交換留学を実行したいという事でした。 しかし、我々は既に最終準備段階に入っており、計画の延期は様々な問題を引き起こす可能性があるとの旨のメッセージを彼らの送りましたが、応答はありませんでした。 ■地球着陸 1963年12月に、彼らは着陸場所と日時を確認するメッセージを送ってきました。そのメッセージには、2機の宇宙船が打ち合わせた場所に着陸するであろうと述べられていました。 (この時期、アメリカではケネディー大統領が暗殺され、政府はその対応に苦慮していました。プロジェクト関係者の中には、交換留学計画を中止すべきだという者も現れました。 しかし、ジョンソン大統領に事前に説明がなされ、計画を続行することが決定されましたが、その時大統領はプロジェクトについてあまり本気にはしていなかった様子でした。) 我々は、2つの着陸候補地を検討しました。 1つは、ニューメキシコ州アラモゴードのホロマン空軍基地、もうひとつは実際の着陸地点となった、ホロマンの西、ホワイトサンズ基地の南口近くでした。 最初の宇宙船は、1964年4月24日午後に大気圏に突入しましたが、ニューメキシコ州ソコロ付近に間違って着陸してしまいました。 我々はホワイトサンズの所定の場所にいましたが、最初の宇宙船が間違った場所に着陸したと彼らにメッセージを送ることが出来ました。 それを受けた2機目は正しい場所に着陸することが出来ました。 ■会合 イーブ船は、我々が知らせた正しい場所に着陸することが出来ました。 地上には、16人の政府高官が待機していました。そのうち何人かは政治家で、何人かは陸軍士官を含む高官でした。 イーブ人達は、宇宙船から出てキャノピーの下を歩いてきました。 彼らは、興味深いテクノロジーをプレゼントしてくれました。それはマイクとモニタ画面を備えた自動翻訳装置でした。 政府高官は、片方の装置を渡され、イーブ人はもう片方の装置を持っていました。 職員がマイクに向かってしゃべると、モニタ画面にはイーブ語と英語の両方が表示されました。 でも、装置自身がまだ未完成だったので、全てを翻訳できたわけではありませんでしたので、正確な会合の記録にはなりませんでした。 イーブ人達は、翌年に交換留学を行う事を決めたと伝えてきました。着陸場所と日付は、1965年7月にネバダ実験場となりました。 我々は、計画が外部に漏れないように、同じ場所を何度も使いたくありませんでした。 チームメンバーは、1964年5月までフォート・レヴェンワースで待機させられた後、キャンプ・ペリーに移送されました。 チームメンバーは、彼らの技能を磨き上げると共に、更に新しい技術を習得する為に、お互いが接触することなく更に6ヶ月間同じ訓練を受けました。 これは、チームメンバーがイーブ語を学ぶよい機会でもありました。 チームメンバーの多くは、イーブ語の習得に問題がありましたが、2人の言語学者は彼らの言語技術をいっそう磨くことができました。 チームメンバーは、1965年4月にフォート・レヴェンワースに移送されてから、1965年7月にネバダ州に移されるまで基地に閉じこめられました。 交換留学実施中は、留学チームの予備要員を除いて、選ばれた数名の職員だけが仕事を続けました。 そして、いよいよイーブ人の宇宙船が着陸し、我々のチームメンバーは乗り込んで行きました。 ■修正 最初のメールの中で、誤りがありました。それは惑星セルポに持って行った物資の量でした。宇宙船に積載された正確な荷物は、全部で90500ポンド(約41トン)でした。 Eメール#7へ Eメール#9へ |